身からでたサビではない何か

言語化という作業は多くの苦痛を伴うものである.

 

言語化を通じて我々はいかに自分たちが普段感覚で物事を捉え生きていることを実感する. 1日の出来事を文章にするだけであったとしても完全にそれをすることはできないだろう.

 

言語化される際に多くの情報がそげ落ちていく. 1日の出来事を文章化した場合にはおそらく1日のハイライトが語られるはずである. 

私は10 時から3分間眠気を堪えながらカルテ記載をしていた.

など事細かなことはおそらく語られない. 

言語化の昨日の一つは情報の取捨選択であろう. 物事をより簡潔にする機能を持つ.

 

言語化の昨日はそれだけではとどまらない. 言語化はぼやっと存在している抽象概念を許すことはない. ふとした瞬間にその存在を目で追ってしまう異性がいるとする. この時の感情はどのようなものなのだろうか. おそらくその時の感情というものは水に食塩を溶かした時に見えるモヤッとした感じのようにいろんな感情が境界不明瞭に同時に存在しているものであろう. しかし言語化をすると好きかもしれない, とか最近気になる人とかいろんな感情のうちのどれか1つ, または複数のものにフォーカスを当ててそれ以外のものは切り捨てられてしまう.

 

別にその表現が間違っているわけではない. むしろ正しいのだが, 物足りないのである.遥か昔に見た面白かった映画を繰り返し見た時に「あれ?こんなもんだっけ?」という感情に近い気持ちがする.

 

言語化は非常に苦痛な作業である. 言語化を経たものはある意味では洗練され, ある意味では全く違ったものになる. 

 

それを踏まえた上で我々に求められることは, 言語化を経て元のニュアンスとは違ってしまう言葉で他人とコミュニケーションを足らなければいけないこと. また相手の言葉もまた言葉の通りに受け取ってはいけないということである. 

 

自分の中にあったものが自分の外へ出た瞬間に何か違うものになってしまう. 私は少し気持ち悪さを感じている. 身からでたサビではない何かを私は今日も生み出していく.